今回は浜松市北区細江町気賀にある「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」をチェックします。(公式サイト お問合せ先はこちら)
ここ細江町からは多くの銅鐸が出土しています。それにあやかって、気賀(きが)周辺は”銅鐸の町”として町おこしをしています。
「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」は浜松天浜線(天竜浜名湖鉄道)の気賀駅から徒歩5分。下図の赤矢印の部分から入ります。
が、徒歩ならいいのですがクルマではかなりせまい!軽自動車ならまだしも、大型の車では入るのを躊躇してしまうほどです。ついでに建物の影になっていてすぐには道と気づきません。1回通り過ぎました。(笑) わからんに、これは。
三遠式、近畿式の銅鐸が混ざって出土!
目当ての銅鐸は資料館の2Fにあります。
銅鐸は大きく三遠式、近畿式と分かれますが、資料館のある細江町近辺からは両方の特長の銅鐸がバランス良く出土しているようです。図鑑や写真では違いを捉えにくい両銅鐸を、真横で見比べられるのは大きい。
姫街道の中間地点とも言える場所なので、愛知と静岡の文化がちょうど混ざり合っていたのでしょう。
銅鐸はフチの部分に付けられた突起(ヒレ)の大きさや形で、三遠式と近畿式を大きく辨別します。しかしよく見ると、文様の付け方、その意図なども大きく違うことがわかります。
私の感覚では、三遠式は「実用的」、近畿式は「装飾的」に感じられます。
もし鳴らしたり何かしらの方法で”使った”場合、近畿式では装飾がジャマになるのでは、と思われます。つまり三遠式よりも「飾って崇める」方向が強かったのではないでしょうか。
それは鈕や身の部分の装飾にも感じます。
三遠式ははっきりと力強い、ある意味無骨なライン(突線)が通ります。対して近畿式では、浅いが細やかな文様で、飾ろうとする意思を感じを受けます。
質実剛健な三遠式、派手で装飾的な近畿式、だと言えなくはないでしょうか。
ケース外にはレプリカが展示されており、さわったり、鳴らしたりすることができます。
鳴らすとけっこう大きな音が出ますので、ご注意を。力いっぱい鳴らすと館内にこだまするほどの音量です。(笑)
鈕の部分をしっかり観察できます。凹凸や文様の深さなど、ショーケースでは確認できないディテールを感じ取れます。
出土した状態をジオラマとして展示してあります。
方角にはそれほどルールはないようですが、必ずヒレ部分を上下(縦)にして埋まっているそうです。ここにはなにか儀式的な作法があるのかもしれません。とはいえ2022年現在、確定的な資料は見つかっていないようです。
1Fには特産だったイグサの歴史も展示
1Fには特産だったイグサの歴史が展示されています。
かつては水田があり農耕が盛んだったのですが、1498年の明応東海地震(今切口が切れたとされる大地震)、1706年の宝永地震により、塩水を含んだ水が逆流(津波?)。塩害によりあらゆる農作物が全滅してしまったそうです。
その後、生活手段がなくなってしまった農民に、近所の和尚さんがイグサ栽培を伝え、全員で奮起。おりしもタタミが非常に売れていた時代にマッチし、一大特産地となったそうです。
イグサ栽培だけではなく、畳表(タタミオモテ)として加工販売も盛んになり、昭和の時期まで競り市が開かれていたとか。
ただ、重労働な上に稼ぎとしては多くなく、「イグサ農家には嫁に行かせるな」というほど大変だったようです。(学芸員の方 談)
こういった歴史は、学芸員の方が非常に詳しく教えてくれます。
行ったのは土曜日でしたが見学者は僕一人で(笑)、人目を気にせずじっくり観察でき、お話をうかがうことができました。
銅鐸好きならぜひ訪れるべき資料館です。
[su_yutosei_katsudou mokuteki=”三遠式、近畿式を同時に見比べられる「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」を訪ね、特徴を捉える” katsudou=”「浜松市姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」訪問” seika=”三遠式、近畿式の大きな違いを明確にできた。実際にさわり、鳴らすことのできるレプリカで、音や質感も感じることができた。銅鐸がある時期にいっせいに埋められたこと、その埋め方に一定のルールがあることがわかった。”]
コメント